
胃袋は一枚の皮でできているのではありません。粘膜、粘膜固有層、粘膜筋板、粘膜下層、固有筋層、漿膜と7つの層からできています。正確には、潰瘍とは粘液筋板をこえる組織欠損をいいます。それをこえないものは、びらんと呼びます。
しかし、事実上この二つと、もっと進行して、組織欠損が漿膜を越えて穴があいた状態、つまり穿孔も含めて胃潰瘍とします。
いちばん上の粘膜がしっかりと防御されておれば、びらん、潰瘍はおこりません。この粘膜を攻撃し潰瘍をおこす要因が、胃液の塩酸とペプシン、粘膜障害物質(アルコール、非ステロイド系抗炎症剤、活性酸素)、ストレス、それとヘリコバクター・ピロリ(Helicobacter pylori)という細菌です。
胃液は胃粘膜に存在する胃底腺から分泌され、一回の食事でその量は500~700ミリリットルです。けっこう多いと思われるはずです。塩酸は胃底腺の旁細胞から、ペプシンは主細胞から分泌されます。
ペプシンはタンパクを分解する酵素ですが、その酵素としての働きをするには、塩酸によって活性化されなければいけません。この塩酸を中和して粘膜を守るのが、胃の幽門部(十二指腸への出口付近)の幽門腺から分泌される重炭酸イオンである粘液です。
特に十二指腸粘膜は塩酸の影響を受けやすいので、この重炭酸イオンは重要です。よく空腹時の痛みがあれば胃潰瘍だといわれますが、胃よりもむしろ十二指腸に潰瘍がある場合にそういう症状がおこりやすく、胃潰瘍の場合、食物が潰瘍を刺激するため、食後30~40分ごろに痛みを感じることが多いようです。
粘液を障害する物質として日常、最も頻繁に私たちが出会うのは、何といっても酒でしょう。潰瘍のある人は、これはさけたほうが賢明です。しかし、たんに禁酒しろといわれたところで、その医学的根拠をちゃんと示してくれ、そうでないと、酒を止めることなんぞできねぇとおっしゃるのが酒飲みなので、ここで少し書いておきます。
アルコールおよびアルコールによって増加するエンドセリンという物質には、血管収縮作用があります。それらによって胃粘膜の毛細血管が収縮し、粘膜の血流が少なくなり、一種の虚血状態に胃粘膜はおちいり、障害をきたすというわけです。
さらに、血流が再潅流すると、活性酸素が発生したり、サイトカインが放出され、これらも粘膜に障害をきたします(これを医学用語では虚血再潅流症候群とよんでいます。心臓の冠動脈バイパス手術後にもおこりやすい事態です)。したがって、禁酒です。
そしてストレスも内分泌系のバランスを崩し、潰瘍を起こす原因となります。しかし、慢性の潰瘍には昔からいわれていたほど、ストレスの関与は多くないと考えられます
胃・十二指腸潰瘍の最大の原因はヘリコバクター・ピロリ(Helicobacter pylori)という細菌です。
ピロリ菌とは何となく可愛い名前ですが、胃がんとの関連も立証されており、2006年9月4日、厚生労働省研究班は、岩手県や長野県など9地域で、40‐69歳の男女約4万人を1990年から15年間追跡調査した結果、ピロリ菌に感染している人はそうでない人より5.1倍胃がんになりやすく、委縮性胃炎や毒性の強い菌の感染が重なると危険度が10倍以上に高まるとの疫学調査の結果を発表しました。
ピロリ菌は尿素を分解する酵素であるウレアーゼを産生し、アンモニアをつくり、胃酸を中和し自分たちが住める環境をつくりだします。この菌を除菌するには抗生物質とプロトンポンプ阻害薬の組合せが非常に有効です。
普通はアモキシシリン(1500ミリグラム)、クラリスロマイシン(400あるいは800ミリグラム)の二つの抗生物質と、ランソプラゾール(60ミリグラム)というプロトンポンプ阻害薬、これら3剤を使います。
プロトンポンプ阻害薬とは胃酸分泌の最終段階に作用するプロトンポンプ(H+,K+-ATPase)という酵素の働きを阻害する薬です。これら3つの薬の併用は極めて効果的です。2000年11月1日から、これらの3剤の使用に保険が適応されるようになりました。
したがって、比較的安い治療費ですみ、しかも1週間それらの薬を服用し、3ヵ月後に再検査をして除菌が成功したかどうかを簡単な尿素呼気テスト(アルミパックに息を吹き込むだけで、内視鏡を飲み込む必要もありません)で確認するだけです。これ以上、優しく易しい治療法はないでしょう。
20年ほど前までは、胃潰瘍の患者さんはどんどん胃を切除されていました。今から考えると実に野蛮なことをやっていたわけです。もっとも、そのおかげで、外科医は大儲けできたわけですが。
特に個人経営の外科は、はでに切りまくっていました。こういう野蛮な治療を駆逐するにあたって最大の貢献をなしたのはピロリ菌の発見です。1979年オーストラリアの病理学者ウォレンによって慢性胃炎患者の胃粘膜にみつけだされました。
しかし、しばらくはだれからも相手にされませんでした。なぜでしょうか?
ウォレンはオーストラリアのパースという町の病理学者です。一度私はこの町を訪れたことがあります。いつか住んでみたいと思わせるほど、非常に美しいところです。しかも市内のバス料金は無料で乗り放題です。
しかし、大英帝国の権威、オックスフォード、ケンブリッジからみると、田舎も田舎、昔、オーストラリアは英国の囚人の流刑地。そんなところの一病理学者が、pH1.0という強度の胃酸が充満するところに細菌がいることを発見したとしても、誰も認めようとしないのは、当然といえば当然です。
日本でいえば、九州か東北の田舎病院の病理学者が、がんは寄生虫が原因だと発表するようなものです。だれも相手にしてはくれません。日本だけでなく、世界中どこでも権威には弱いのです。
この権威を、体をはってくつがえしたのが、ウォレンのもとにいた消化器専門医マーシャルです。彼は培養されたピロリ菌を自ら飲み、自分の胃に急性胃炎をおこし、身をもって実証したのでした。あっぱれ不屈のオージー魂というべきものでしょう。ついに、二人は2005年のノーベル医学・生理学賞の栄光に輝きました。
したがって、胃・十二指腸潰瘍は現代医学でしっかりと治して下さい。しかし、ピロリ菌をもっているからこそ、肥満にならないという説もあることも知っておいて下さい。
ピロリ菌を飼っていたら胃がんになるかもしれないという理由で、潰瘍の症状もでていないのに、アモキシシリン、クラリスロマイシン、ランソプラゾールで排除しようとするのはよしたほうが賢明です(こういう場合は健康保険は適用されません)。40歳を過ぎれば7割の人がピロリ菌をもっているのに無症状です。
私の胃袋にもしっかりと棲息しています。したがって、なぜ、ある人は胃・十二指腸潰瘍を発病させ、なぜある人は発病させないのか、このへんのところがこれからの最大の研究課題です。
ピロリ菌を駆除することがすすめられる病気には、胃MALTリンパ腫、萎縮性胃炎、胃過形成性ポリープ、早期胃がんに対する内視鏡的粘膜切除術などがあります。
また、最近、特発性血小板減少性紫斑病(ITP)、鉄欠乏性貧血、慢性蕁麻疹、偏頭痛、レイノー現象(発作的な手足の血流障害により、皮膚の色が蒼白からチアノーゼ、発赤という色調変化を示す現象)、ギランバレー症候群、虚血性心疾患、それに酒さ(赤鼻)などにも効果があるとの報告も見受けられます。
というようなわけで、胃・十二指腸潰瘍は、下手に代替療法に頼らず、抗生物質とプロトンポンプ阻害薬を使った、健康保険がきき、しかも簡単で安全な、ピロリ菌退治の治療を第一選択にしなさいということになります。医薬品を使って治療することを私は極力避けています。なぜなら、そういう治療はほとんど効果がなく副作用ばかりが目立つからです。
しかし、こと、胃・十二指腸潰瘍の治療に関しては、‘プロトンポンプ阻害薬+2種類の抗生物質’で治療しないさいとすすめています。
しかし、その治療にも難治である(最近、クラリスロマイシンに耐性のあるピロリ菌の出現が問題になっています)。あるいは、抗生物質にアレルギーがある。あるいは、非ステロイド系の消炎鎮痛薬を服用していたり、また予防のためのサプリメントを試してみたいという場合には、数多くのサプリメントが存在します。
ギリシアのヒオス島にのみ自生する潅木の樹脂や、アイスランドの苔、ニュージーランドのマヌカハニーという蜂蜜などにも、予防効果があります。また、胃粘膜の修復には亜鉛が必要です。
また、‘プロトンポンプ阻害薬+2種類の抗生物質’の標準的治療を行うと、抗生物質で腸の善玉細菌も一緒に殺されるために、乳酸菌を補うべきです。